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【LIVE REPORT】そして僕らは、黒く鈍い光に手を伸ばしたくなる。糸奇はな、ライブレポート。
新作アルバム『VOID』を手に、糸奇はなが通算5度目となるワンマン公演「Drowning In my Own Void」を2月8日(土)表参道・LAPIN ET HALOTを舞台に行なった。同会場は、ギャラリーとホールを併設。アートディレクションも含め表現している糸奇はなにとても似合う空間だった。
ステージ前を覆い尽くした白い幕。その幕も、微妙に張り方をずらしながら幾重にも重ね、複雑な形を成していた。糸奇はなのライブは、その幕に様々な文様や映像を投影。本人は、その幕の裏側で歌うスタイルを持って行なわれる。そうするのも、その空間に生まれる楽曲へ、より深く心のチューニングを合わせられるようにとの想いから。本人の姿がそこにあると、人の視線は歌声よりもアーティストの姿自体を追いかけてしまう。もちろん、それが当たり前のライブ・スタイルだ。でも糸奇はなは、その空間を彩る音楽に心の視線を注いで欲しいからこそ、そのやり方へこだわりを持っている。もう一つの理由に、照れ屋なあまり、人からの注目を一身に浴びると余計な緊張を重ねてしまうことから、人の視線を気にしないようにとの手段でもある。そこもまた可愛らしい…というよりは、心的世界観を大切に歌の中へ投影してゆく彼女にとって、自身の心の色(想い)を際立たせてゆくうえで姿を隠すことが最良の手段だからと、ここは捉えよう。
先に、この日のライブの狙いを種明かすと、演目は、最新アルバム『VOID』の最後に収録した「heartless」から幕を開け、アルバムを遡る形で順に演奏。最後に、冒頭を飾った「悪魔とおどる」でライブの幕を引く形を取っていた。その理由もあったのか、ライブの冒頭からクライマックス感を覚えたように、糸奇はなは「heartless」を介し、高揚した声を会場中にはべらせていた。「きみさえ信じて、くれたなら「ぼく」は「ほんとう」になれる、のに。」と歌うその声は、一つの答えを示していた。でも、その想いを“始まり”に記したことで、触れた人たちは、それがどんな背景を持って生まれたのかへ自然と興味関心の目を向けていた。答えを示した物語を少しずつ紐解き、解き明かす。むしろ、そのほうが謎と好奇心を重ねながら物語を味わえる。
ここからは、私見を述べさせていただく。なので、それが合っているのかよりも、こんな解釈もあるという見解として捉えていただきたい。
2曲目に歌った「きみがいた」で、糸奇はなは「なぜ、笑顔のまま、泣いている?いつまでも ひとりきりで」と、宇宙空間の広がる映像を投影しながら歌っていた。その姿を観ながら感じていたのが、その曲や歌声を受け止めていた僕ら自身が、奥深い悲しみを抱いた糸奇はなの心に生まれたブラックホールへ吸い込まれてゆく感覚だった。アルバムでは希望を示す楽曲でありながら、それを序盤へ据えたことで、心は、彼女が示した心の闇へ引き寄せられるどころか、どんどん吸い込まれていた。
糸奇はなが楽曲の中へ映し出すのは、何時だって狭いワンルームの中、独りぼっちでたたずむ一人の女性の姿であり、解いては、また複雑に答えを絡めあうように、延々と自問自答し続ける心の素顔。答えが出ないわけではない。答えを出しては、そこへさらに疑問を重ね、一つ一つ答えを重ね続けてゆく。それは、永遠に答えの出ないパズルのような様。だけど人は、自問自答してゆく様にこそ共感を覚える。何故なら人は、明確な答えが出たら、そこで心にピリオドを打ち、前へ進む意味を見いだせなくなるからだ。
糸奇はなは、何時だって狭いワンルームの中で自分自身へ問いかけながら、心の中へ無限に広がった宇宙のような空間へ、届くのかわからない声を響かせてゆく。確かにその声は、いろんな人たちの心へ響くかも知れないし、実際に響いている。でも彼女自身は、その答えを次々と、みずからの心に生み出したブラックホールへ投げ込んでゆく。そうやって答えを出さないことで、闇に身を浸すことへ心地好さを覚える自分を正当化していける。
人は光の中へ包まれていると、小さな黒い闇など、その光に隠され見えなくなる。今でこそ闇を抱える人たちの放つ黒く鈍い輝きも、人の存在を示す輝きであり、共感を持つ存在だと認められている。それでも鈍く黒い光は、光を放つ眩しさ(集団)の中では一瞬にして消されてしまう。だけど、何時の時代でも、その黒を求める人たちはいる。その黒い輝きを見つけた人たちが、糸奇はなのライブ会場を埋めつくしていた。その鈍く黒い輝きへ、何時しか心は吸い込まれるように引き寄せられていた。