時代の流れを読む天才!湯浅洋「バブル期」「シドニー五輪開催決定」「辻よしなり」「SKE48立ち上げ」~父を溺愛、16才の別れ、ディスコの世界へ没入、生涯“生意気なガキンチョ”です

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2007年からSKE48立ち上げに関わり、SKE48劇場支配人を経て、AKB48劇場支配人を歴任した湯浅洋の人生を深堀りしてみた。幼少期から学生時代、社会人、起業、現在に至るまで知られざる秘話が。現在62才の湯浅の成功哲学、こだわり、大切にするもの、そして理由が垣間見えた。父子の不器用な愛情表現、16才で他界した父が遺したものは何だったのだろうか?生き方に迷った青年、不器用で生きづらい人たちに読んでほしいインタビューである。豪快な性格な裏側に繊細な心遣い、流行の風を読み取る秘訣が少し分かった気がした。

―― 簡単に自己紹介をお願いします。

1962年(昭和37年)8月9日、東京都江戸川区東小岩に生まれました。湯浅洵(まこと)と英子(えいこ)の間に生を受けまして、2才違いの妹がいます。父の洵は一代で空調会社の社長を立ち上げ、裕福な生活をしていました。血族には東洋英和女学院理事長を務めた西野嘉一郎(祖母の妹の夫)、最高裁判所判事を務めた田中真次(祖母の妹の夫)がいます。

身長は178センチ。チャームポイントの顎ヒゲは33才のときオーストラリアへ移住しまして、剃るのが面倒くさいという理由で、以降伸ばし続けています。愛称は「ゆあたん」です。

△写真:家族写真・後方右の少年が湯浅洋

【父が大好き子供でした。今でも父の趣味を引き継いでます】

―― 生い立ちをお教えください

東京都江戸川区東小岩に生まれました。

父が大好きな子供でした。秀才肌で実直性格、嘘をつけない、怒らない人でした。数学が好きで、本もたくさん読んでましたね。いわば活字中毒というか推理小説を読んでいる姿が今でも思い出します。

IQ160の持ち主で麻布中学・麻布高校を卒業学。明治大学ではワンダーフォーゲル部に所属。父が趣味にしていたことは片っ端から真似ましたね。今の自分は父の憧れから出来ているのかもしれません(笑)。

後で触れますが父は「鉄道模型」「ゴルフ」「サーフィン」「ラジコン」「音楽」「スキー」「プロレス」など多趣味で完璧主義な人でした。私が16才のとき43才という若さで他界してしまいましたが、今でも私にとって父親は若くてカッコいい姿で瞼の裏に焼き付いてます。父の趣味が私の趣味になってますね。

△写真:湯浅洋の両親、スキー場にて

―― せっかくなのでオススメ教えてください!

◆想い出のスキー場SELECT3を教えてください。

<1>野尻湖・黒姫山スキー場 <2>八ヶ岳・白樺平スキー場 <3>志賀高原スキー場 苗場他

◆おすすめ読書SELECT3を教えてください

<1>東野圭吾(すぐに入り込める) <2>片岡義男『人生は野菜スープ』『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』『メイン・テーマ』『湾岸道路』 <3>眉村卓『なぞの転校生』『ねらわれた学園』

◆好きなプロレスラーSELECT3を教えてください

<1>アントニオ猪木 <2>ザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン) <3>AJスタイルズ

△写真:幼少期の湯浅洋

【16才のとき父と突然の別れ。ディスコという未知の世界へ没入していきました】

―― どんな学生時代を送ったのですか?

練馬区立中村小学校、練馬区立中村中学校を卒業しました。

高校は東京都内の進学校へ進みまして、高校1年生からディスコにハマりました。当時は1977年公開ダンス映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が空前のブームでして。大学1年の先輩に連れて行ってもらいまして。新宿歌舞伎町の東亜会館ビルに入っていた「カンタベリーハウスギリシャ館」というディスコがデビューでした。

最初はドキドキとワクワクな世界だったんですが、1978年に43才の若さで父が他界しちゃって。私が16才のときですね。自分で真空管のアンプを作るぐらい音楽が好きだった父の喪失感を消すように、洋楽が爆音で流れる空間が心地よくて。なんか父の部屋で一緒にジャズとかソウルとか世界各国の曲を聞いていた風景とダブるときがありまして。私にとって初めて知る大人の遊びなんですけど、天国との父と会話できる空間というか。センチメンタルな年齢でした。だから未だに音楽の世界から離れられないんでしょうね。

今でも忘れられないのは19才のときに渋谷にタワーレコードが出来て、輸入盤レコードを買いまくったことですかね。生まれたときから父の部屋には300枚を超えるレコードがあって、記憶がままならない頃から音楽に触れてきまして。特に袋からジャケットを取り出すときの封の匂いが好きで。

―― お父様の死で何か弾けたんですね?

そうかもしれませんね。10代は新宿のディスコに入り浸ってました。今でも3つあげるとしたら「B&B」「NEWYORK NEWYORK」「XENON」ですね。もうなくなっちゃいましたけどね。なんか懐かしいですね。父の死の反動ってやつですね。音楽に没入していったのは!あと1979年3月3日公開の村上龍原作「限りなく透明に近いブルー」を新宿のオールナイト上映で見まして。頭を殴られたような衝撃でしたね。物語全般にディスコで流れる曲がたくさん使われていて、壮大な音楽映画で。

次第に大人になっていくうちに六本木デビューをしまして。新宿と違って、その頃は「サーフィン」「スキー」にハマって、六本木のディスコに集合して海や山に仲間と行く流れで。しばらくして「私をスキーに連れてって」のホイチョイ・プロダクションズ、ユーミン、サザンの主題歌映画が猛烈に流行る時代のちょっと前でした。今考えるとまだまだ「サーフィン」「スキー」「ディスコ」は専門的な人が遊ぶ時代で少し時代の先を走っていたのかもしれませんね。

【心の中にはいつまでも“生意気なガキンチョ”が住んでます。アメリカかぶれだった青年期、海外の憧れは強いです】

―― 外国への憧れ、意識が外へ外へ向かっていたんですね?

1983年4月15日の21才のときに「ディズニーランド」が出来たときすごく印象的な出来事でした。昔からアメリカかぶれと言ってもいいように憧れが強かったので。アメリカの象徴と言えるディズニーが日本に近づいてくれたって。今の人には分からないかもしれませんが。当時の日本は洋画を見たり、洋楽を聞くぐらいしか海外のファッションや文化を収集できなったので。情報源が少ないってことは余計、空想が膨らむんですよね。あと大橋巨泉さんの「11PM」は刺激的でしたね。見たことない情報が深夜に。『今週のギャル』コーナーに「ミス・スキーガール」の女の子がオシャレに出てきて。スキーってカッコいいなあって再認識した瞬間でしたね(笑)。

―― 遊ぶに忙しかった湯浅さんは遊びの達人だったんですね。1日24時間のなか大切にしていた3つをあげてもらってもいいですか。

1位は友達!2位は音楽!3位はスポーツ!ですね。今と変わらないですね。

人が好きで人と集っているのが楽しく。音楽は離れられないもの。スポーツは60過ぎても何でもやるし。結局、10代と変わっていないんですよ。決して偉そうなことや、大人ぶって話していることがあっても心の中は“生意気なガキンチョ”ってことですね。

【時代の流れを読む天才!「バブル期到来」「シドニー五輪」「辻よしなりとの出会い」「SKE48誕生・プロデュース」】

―― 社会人になってからのお話をお聞かせください

大手百貨店で働きながらバブルを迎える。2才年上女性と26才で結婚、28才に娘を授かりました。

世間的には25才から29才がバブル到来で日本はイケイケでしたね。百貨店で働きながら、外の世界を知りたい、普段出会わない人と会って知見や人脈を広げたいって意欲が湧いて。百貨店を退社して珈琲店の店長を2年経験。

1990年、28才のとき自分社長の会社を作りました。新宿にグリーンリースの会社、麻布に不動産屋、青山に海外ハイブランドの輸入店。グリーンリースの会社以外は成功しました。

―― 会社起業と芸能の世界をどう繋がっていくのですか?

1995年、33才のとき2000年シドニー五輪開催決定に合わせて、オーストラリアで主に政府関連の仕事や日本人向けに観光情報提供、テレビ番組のコーディネーターなど幅広く手がけました。五輪開幕直前の1999年までオーストラリア・シドニーを往復する日々を送りました。おかげで日本の業界とも深くつながることができました。特にテレビ朝日アナウンサーの辻よしなりともロケで知り合い仲良くなりまして。私、小さい頃からプロレスファンなので直ぐに意気投合しまして。その流れで、辻よしなりから「会社をやめたいんだけど一緒に会社やりませんか」って相談され。

2000年、38才のとき千駄ヶ谷に「辻プランニングオフィス」を作りまして、まさかの芸能事務所の立ち上げ、仕事は営業しやすいように本名の「辻義就」の「義就」をひらがなにしたこと。もともと実況する才能の他に対応力が本物だったので、すぐ仕事は増えてきましたね。文化放送で帯冠番組が始まったり、テレビ東京で月曜から金曜の3時間生放送の帯番組メインMCになったり。その他とんねるずさんの生だら他沢山の仕事がいただけました。

「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」で起用してもらったとき、当時とんねるずさんのマネージャーが中学の後輩だったんです笑。プロレス実況の流れで黒のカリスマ・蝶野正洋さんのマネージメントも一時させてもらうようになりました。

2006年に「辻プランニングオフィス」を抜けまして。京楽.株式会社から芸能の版権ビジネスの依頼とパチンコ台盤面のデザインなどのお仕事をいただきました。私に白羽の矢が立ちました。人間が好きなので色々な人をつなげる事が出来ました。

―― その後、SKE48誕生につながっていくんですね?

2008年、名古屋にAK B48の姉妹アイドルグループを作るんだけどAKB48劇場を視察してくれませんか?と相談を受けました。アイドルと接することがない人生だったので半信半疑で秋葉原に行き、AKB48のステージを観て感動。「コレは凄い!」と思い、引き受けました。その後は皆さんがよく存じている流れとなる訳です。当時、私の娘は18才でSKE48一期生のメンバーとダブったんですよね。みんな自分の娘のように成長してほしいなあと。そんな娘も結婚、出産。

2025年現在62才、同世代のスターは、とんねるず、DJ KOO、TRF SAM。2才と6才の孫に囲まれるおじいちゃんになりました(笑)

▽プロフィール「湯浅洋」

1962年(昭和37年)8月9日、東京都江戸川区東小岩生まれ。実業家、音楽プロデューサー、FreoMotto取締役、INSPIRE、スプスラッシュ等プロデューサー。

大手百貨店、不動産を経て起業。バブル時代、様々な事業を立ち上げて成功。シドニー五輪決定を機にオーストラリアへ移住、貿易事業を始める。コーディネートをするなか元テレビ朝日アナウンサー辻よしなりと芸能事務所を立ち上げて副社長となり、企画・版権・キャスティング・営業ほか活躍の場を日本に広げた。

2007年からSKE48立ち上げに関わり、SKE48劇場支配人を経て、AKB48劇場支配人を歴任。国内に留まらず、アジアを拠点に活躍するJKT48スペシャルアドバイザーを務めた。

1児の父、2人の孫がいる。趣味は音楽鑑賞、DJ、スキー、ゴルフ、プロレス、読書、乗り物(電車・飛行機)ヲタク。

https://x.com/yuasa_inspire

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